2009年09月22日

環境世界と自己の系譜

『環境世界と自己の系譜』から
 大井玄さんの『環境世界と自己の系譜』(みすず書房)の中で触れられている「唯識に説かれた深層意識」は、おそらく私たちが現在の社会、さらには環境の問題を考えるに際して重要な視点を提供しています。
 いま、私たちは、個々の人間が自立した独立の存在としてあることに疑問を抱いていません。たしかに見かけ上は、その通りですが、私たちは社会と一体でなければ生きていけない存在に過ぎません。さらにその社会は環境と一体でなければ存在し得ません。その地球環境も宇宙環境と一体でなければなりません。多様な「生命」は、いずれも最終的にはつながった一体のものなのです。私たちが、個々の存在と考えるのは、私たちそれぞれが、自己を中心と置く「環境世界」を仮構しているからだというのです。
 おそらく、それは正しいのですが、しかし一方で、解脱者ならぬ俗なる輩が暮らす世界で、このことを唱えれば、ほとんど間違いなく、その言説は権力にとって都合よく解釈され、都合よく用いられることでしょう。大井さんが、江戸時代を閉鎖系の平等意識の世界とし、個々の人びとのつながりがあったとするのも、疑問を呈さざるを得ません。江戸時代人が守ったとされる「森林」も、江戸末期には、権力によって禁伐とされていたり、経済的観点から育林されていたものなどを除き、里山の樹木が伐採され尽くされていたのです。まさに、それぞれが自己を中心に置いた「環境世界」を仮構していたからでしょう。さもなければ、明治維新以降、あの短時日のうちにアジアへの侵略者となり、戦争に敗れて後は、エコノミック・アニマルと化していったのか説明はできません。
 大井さんの議論は、過去に向かってその正しさを求めるのではなく、未来への思想として捉えたいと思います。
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2009年07月08日

食の共同体とは

食の共同体
 いま、手もとに『食の共同体』(ナカニシヤ出版)という本があります。この数年、行政が躍起になって推進しているらしい「食育」を批判していますが、いや、なかなか面白い「食」の本になっています。
 たしかに、なぜ「食育」なのでしょうか。人間の根源的な欲求である「食欲」に関連しているし、著しく個人的なものでもある。たしかに共食ということもありますが、それにしたところで「公共的な」ものではありえません。国家や行政が立ち入るものではありません。しかも、「食育」では、これまで存在もしなかった想像の家族像がいかにも、過去に存在した理想的な家族像であるかのように示され、そこで過去には食べられもしなかった食事が理想的な食事として提示されています。よけいなお世話なのですが、どういうわけか、このような国家の個人生活への干渉は、この国では人びとにも妙に好まれるようなのです。
 しかしそれでは、少子化が危機的だとして、国家が「性育」に踏み出すのでしょうか。
 性教育ではなく、性の世界に国家が干渉する「性育」は、おそらくだれもが余計なお世話だと思うでしょう。しかし、「食」のコントロールの次は「性」となるかもしれません。
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2009年01月01日

今年はどうなるか

荒れに荒れた2008年が過ぎ,2009年がやって来てしまいました.おそらく年が変わっても,何事も根源的には変わらず,右往左往するにちがいないでしょう.
わたしたちは,前世紀の後半にいわゆる「社会主義諸国」が崩壊して以降,資本主義が人の取り得る唯一の「経済制度」だという神話を作り上げてしまいました.果たしてそうなのでしょうか.
すでに多くの人が経験したように,資本主義経済のもとでは,社会が経済に包摂されています.しかもその経済は,基本的には資本の増殖をこそ目的としています.つまり人間は「手段」といえます.しかも,この経済においては,もともと「生産人口」に属さない人びとは「手段外」の存在でしかありません.
じつは,わたしたちがかつて「社会主義」と思わされてきた国々も「生産力」の向上を目的として,その手段に人びとがいる経済組織でした.それは,多様な欲望開発すら知らなかった経済組織でした.ある意味で資本主義のできの悪い双子でしかなかったのです.
ところで,いずれにせよ「生産」にとらわれると,生産に参加し得ない人びとは排除(もしくはお情け)の対象となります.
人間社会は,生産の論理=経済の論理を超えた存在なのです.人間社会には,乳飲み子も障がい者も,高齢者もいます.いま,生産に加わることをあたかも人間の尊厳であるかのようにとらえる発想がありますが,人間の尊厳はそんなものではありません.この意味でも経済は社会のための手段であっても,けっして目的にしてはならないものと言えます.
今年は,このようなことを折に触れて語っていきたいと思っています.,
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2008年12月07日

わたしたちは、どこへ向かうのか

わたしたちは、どこへ向かうのか
雑賀恵子さんの『エコ・ロゴス』― 存在と食について― から

 わたしたちは、かくも自然から遠いところに来てしまったことを、自覚しなければなりません。
 京都薬科大学を出て、京大文学部に入り、さらに農学部で博士号を得た雑賀さんについてはこれまで存じ上げませんでしたが、この『エコ・ロゴス』という、著作には、正直仰天瞠目しました。
 「生態系から離脱しながらも、農耕や牧畜はしかし、なおもしばらくは、それは食べるものとしての生物を育てることであり、生きモノに貼り付いた生産、わたしと生物との関係である生産として在り続けた。だがいまや、わたしたちは、発展させてきたテクノロジーの結果、生きモノとわたしのあいだにカネを介在させ、生きモノではなく、商品としての生産を行うようになっている。大地もまた、国境線と資本に屈服させられ、土と闘いながらも大地に繋がって生きモノを育ててきた人々は資本の論理に組みしだかれている。飢えとはもはや、食べるものの欠如ではなく、食べるものを獲得するためのカネの欠如によってもたらされている」(P51)。
 資本の論理に組みしだかれた現代農業にはもはや自然のかけらもないのは事実ですが、彼女の問いかけは、さらに根源的(ラディカル)に、その思考の旅は、飽食、拒食、人肉食にまで及びます。
 「なぜ、人を殺してはいけないか」と、彼女は疑問を提出します。もちろん、このことはあとで触れるように「殺害の禁止」とは異なった次元で発せられた言葉です。わたしたちは、彼女が言うように、一部の無機化合物だけを炭素源とする生命を除き「その生命を繋ぐために、他者=生命体を食べなくてはならない」ことを、もっと謙虚に考えなければなりません。そして無機化合物だけを摂取する生命もまた、食われることによって、生命を繋いでいるのです。そういうなかで、牛は「食う」ために殺していいが、「人が人を食うために殺すことは許されない」と言い切ることができるでしょうか。わたしたちは、戦争に於いて、生命を繋ぐために、つまり「他者を食う」ためにではなく、「無駄」に人間を大量虐殺してきましたし、そして相変わらず、虐殺し続けているのに、です。
 その文脈で彼女は、ユダヤ人の殲滅に手をつけたナチス・ドイツが、その反面、徹底的に自然の保護を行ったことにも触れています。
 「ナチス・ドイツの例を引かなくても、わたしたちは、このようなグロテスクな滑稽さ、を現在もいたるところでみることが出来る。さらに、ある種の動物を殺害することには異様に残酷さを言い立てるという無数の例も、付け加えられるだろう。そのグロテスクな滑稽さとは、人間を大量殺害することには平気であるが、動物に対する愛護の精神を失わないグロテスクさではなく、生命体に言語でもって境界域をつけ、すなわち、恣意的にその都度つける有用性や優劣や美醜やそういった価値の基準をそのなかに流し込んで眺めていることにある。一言で云えば、存在するものへの侮辱、ということに気がつかないことだ。
 ほかならぬこの〈わたし〉が生きる場所を確保すること、と、生存権の確保は、議論のフィールドがまるで違う。言い換えれば、殺害の禁止と、ほかならぬこの〈わたし〉が殺すか、ということとは位相が違うのだ」(P229)。
 わたしたちは、聖書のなかにすでに色濃くこのグロテスクさが示されていたことを知っています。たとえば、「食べてよい生き物」、「食べてはいけない生き物」が言葉=言語でもって明示されているからです。
 そのグロテスクの極みである“人間”の現代社会は、1時間に3種の生物種を絶滅させているといいます。なぜ、自然を破滅に追いやる可能性の大きい、ということは人類自らも破滅に追いやる可能性の大きい“文明”が地球にはびこったのかは、ここではひとまず措いておきますが、彼女が指摘しているように、「わたしたち人類というものが現れてから現在(約64億人)まで、この世界にかつて存在した、そしていま存在するひとびとの総計は、約百億人だといわれ……過去数万年の人類史における人工総計を上回る人間をわずか百年で産み出してきた」のは事実です。そして「20世紀は、破壊と殺害の世紀でもあり、やはりテクノロジーの発達により可能となった総動員思想に基づく二度の世界戦争及び地域戦争、紛争などで死亡した人は一億数千万人から二億人とされ、環境破壊及び動植物の絶滅種、絶滅危惧種がかつてなく増加した世紀」でもありました。
 このことを謙虚に受け止めれば、環境問題はけっして“地球温暖化”の問題ではないことが明確になります。環境問題は、わたしたちの現在の文明に内在する問題なのです。わたしたちの現在の文明が存在する限り、おそらくは解決されることがないことに気がつかなければなりません。果たして、わたしたちは、この文明を根源的(ラディカル)に否定し、まったくあらたな何ものかを生み出す想像力と創造性を持っているでしょうか。

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2008年09月01日

「死にたくない」との幻想 ー伊藤さんからー

 対話への応答を有り難く受け止め、土井さんの掲げる「人類の見落とし」を考えてみたいと思います。

 死を常態と見れば「生こそ奇跡」との指摘は当たっていますね。人間が脳細胞の異常増殖により、前頭葉なるパソコン機能が付与されたことで、「記憶」「思索」「観念の創出」「共同幻想」など、全ての社会現象の仕掛けが可能になったと思います。

 養老孟司・東大名誉教授のいう甦りと同軸の指摘と思われます。
 「朝起きたときの脳の状態は、昨日の続きではなく、新しい自分が過去を継続していると思いこんでいるだけ」「短時間で消える記憶と常時繰り返し使う思考回路の不完全な再生」「就寝のときに死んだ昨日の自分が継続しているという幻想」など、死生観を根本から見直すべきなのですね。

 秦の始皇帝はじめ「死にたくない」との幻想は世界に拡散普及して、対症療法で生命を長らえる西洋医学が「副作用を隠し自然生態循環を妨げる」似非医薬品との連携で、まちがった死生観を植え付けていますね。

 ある日、化石エネルギーも電力も失われ、食料を確保できなくなるまで、奇跡の命の価値は考えることさえないでしょう。巨大ハリケーンには無力で避難するだけの米国を見ても、いかに自然をないがしろにして、おごり高ぶって生きているのかを知るべきですね。

 できるだけ、論点を絞り各論での対話を進めたいものです。よろしくお願いします。

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死から生を見る

 じつは、このブログには「思想」といったジャンルが想定されていません。仕方なく「ニュース・社会」に入れていますが、このことは、まさに私が今回提示しようとする本来の想像力や創造性を否定する現在のわたしたちのありようを示すものかもしれません。

 世の中には、現在の社会を固定的に考え(というより、現在の社会がその人にとっては都合がいいからという場合と、現在の社会以外のありようを想像する想像力すら持ち合わせない場合とがありますが)、その枠の中でしか議論できない人間が少なくありません(むしろ、そういう人間が大半で、この国の出版一般はじめさまざまなジャンルの中身を見れば、例外を探すのが困難なくらいです)。

 そういう固定的な考えの中に、人間は健康でなければならないとか、長寿とか、老いを避けるとかといったことも含まれます。いずれにせよ人間は「死ぬ」のですから、「死」という観点から議論した方が「生産的」なのになぁと、わたしは思います。つまり、生から死を見るのではなく、死から生を見るということです。「死」は、身分の上下、貧富の差なく、必ず生あるものに「平等」に訪れる事態だからです。そう考えたとき、1日の生も、120年の生も等しく愛おしい「生」であることが理解できます。つまり、「死」から「生」を見れば、長く生きることが価値あるというのではなく、「生」そのものが、わたしたちが暮らすこの宇宙で、ひとつの奇跡であることが理解できるからです。さらに、そのような「生」の奇跡がひとり人間だけでなく、すべての生あるもの…動物も植物も、さらには細菌やウィルスですらも…にもあることを考えるとき、わたしたちが他の「生」を摂取しなければ生きていけない意味も分かってきます。

 わたしたちにそのような「生」のありかたの理解を妨げているものは、いったい何なのでしょうか。それを追究して行けば、歴史の中で、そしていまもある「人間」のつくりあげたさまざまな制度が、いかに異常なものであるかが見えてくるはずです。

 「生」が奇跡であり、しかもこの地球の上で、かくも多様な展開をしているのは、なぜでしょう。それに対して、いま人間がやろうとしているのは、「普遍性」という名目でのその多様性の否定です。ほかでも指摘しましたが、世界を単一の「市場」に組み込むことは、結局は多様性を否定することになって行きます。たしかに人間の都合で人間がつくりあげた経済制度の生産性を上げるという観点だけからは、世界を単一の市場に統一することが「効率的」なのかもしれません。さらに、資本主義の市場経済に異議を唱える人たちも、その多くは、このような生産性を上げることに関しては同じ局面にいます。
 これまでも何度か指摘しましたが、わたしたちが経済的な生産性を上げるということは、その多くが自然から奪う…このことは、わたしたちがわたしたちの「生」をまっとうするために他の「生」を摂取することとは、全く異なった事態です…ことなのです。そこで失うものは、わたしたちを生命として支えている「生」のシステムそのものなのです。

 最初に述べた想像力の欠如は、ここまでくればお分かりのように、わたしたちが狭義の「人間中心主義」に縛られているからにほかなりません。どうすれば、それを乗り越えられるのでしょうか。ねえ、伊藤さん、いかがですか。

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2008年08月29日

伊藤・土井「対話編」その1

 さて、このブログについて、神奈川県逗子在住の畏友・伊藤正彦さんより「対話編」の申し入れがありました。そこで、この場でこれからしばらく、土井・伊藤の対話を試してみたいと思います。どうなることでしょうか。

 「自然はどこまで人間に耐えられるか」を読んだ伊藤さんから〜

 マックス・ヴェーバーの神への信仰と資本主義との共存への価値転換、唯物史観の神髄たる「人間的情緒と自然との断絶」を背景に含意する、心の田園風景としての自然生態循環への回帰こそ、貴兄の含意するものかと思われます。
 生死を対等の相対的価値として、マルクス流の弁証法なる「詭弁」にて問題提起したことも重要な思索だったでしょう。また、古代ギリシャローマの哲人たちも思索の成果として、リトマス試験紙や染色体試薬のように「唯識論」を色分けから始めていますね。
 ここからの論議こそ、養老孟司・東大名誉教授の独り言「バカの壁」とか、安保 徹・免疫学者の無責任ストレス解放と自己免疫回復への自助努力方法などと一線を画すものかと考え始めております。
 さまざまな社会条件は違うが、儒教が道教に制覇され、仏教がヒンドゥー教に払拭されたことなどと通底する構造上の難題があろうかと思います。そのなかで特殊なのが、ユダヤ教から生まれたキリスト教、ゾロアスターなどの原始宗教から派生した諸宗教の融合を唱うイスラム教には、教団の勢力を維持発展させる命の長い啓蒙普及・布教システムがあることに注目しています。
 食物のタブーと禁欲の日を定め、ひたすらホメオスタシス(生態恒常性均衡)と自然生態循環を求めているのは深遠な知恵と思われます。

貴兄が問いかけるのは:
 自然を主体に、人間による破壊と渡り合い、時に大洪水や干ばつなど「インドラの火矢」を射るまで自然界の我慢は続くのか、どこまで許容するのか
 異常気候など序の口、化石燃料の採取困難な自然災害とか、栽培植物の一斉突然死とか、淡水資源の蒸発など極端な枯渇、対症療法では治癒不可能な異次元の流行病などで、自然は鉄槌を下す。
 そこまでの視野で、貴兄のブログは開始されているのでは?
 また、悪役(heel)が政治経済の舵取りをして破滅に進むのが、見かけの「pax Romana」の悲劇。かの日本帝国や思い上がり米国の破綻劇に象徴されるが、食い止めるのは不可能。
 特に我が国の「おかみ至上主義〜役人政商の天国」は「衆愚の悲憤慷慨を均衡回復エネルギーに変換する」自然生態循環=ホメオスタシス(生態恒常性均衡)を働かせないように、巧まずして愚民政策が功した例として謙虚に受け止めています。

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2008年08月25日

時間的距離が短くなると

 わたしたちは、たとえば新幹線ができて東京(あるいは大都市)との時間的距離が短くなると、便利になったと言います。
 でも、よく考えると、すこし変ではないでしょうか。
 東京(あるいは大都市)への時間的距離が近くなることが、なぜ便利なのでしょうか。いろいろな機能が身近にないから、ですか。なら、いろいろな機能を身近におくことの方が便利なはずです。一番近くのコンビニエンス・ストアが車で30分といったら、それはけっしてコンビニエンスではないわけで、身近にあるからコンビニエンスなのです(もっとも、地域によっては車で30分というコンビニエンス・ストアもあります。けれどもそれは、いつの間にか、わたしたちの生活がコンビニエンス・ストアを必要とするものに変えられてしまったからです。とはいえコンビニエンス・ストアの存在は、地域にとって必ずしもよいとは思えませんが…)。
 また、時間距離が近くなったことで、もともとアフリカの食べ物―オクラやモロヘイヤはその典型です―が、突然、日本の食卓に上ったり、畑で栽培されたりしています。珍奇なものを好むのは、たとえ人間に遺伝的に植えつけられている行動であるにしても、人間が自然の速度を超えて移動しはじめてから、わずか1000年も経たないうちに、人間は地球の生態系をめちゃくちゃに変えてしまいました。人間という動物の1種の都合で、こんなことをしてしまっていいのでしょうか。時間的距離が近くなるというのは、あくまで人間の都合でしかなく、便利どころか、ある意味で大変な「自然破壊」を生み出しているわけです。
 さらに、時間的距離が近くなればなるほど、地域で人びとを結びつけていた社会的な靱帯も切り刻まれてしまいます。人びとは、地域社会の中で暮らすというより、会社や国家に結びついていると感じるようになるからです。ことにサラリーマンや国家論に夢中になる男たちには、その傾向が強いようです。しかし、とどのつまり、人は具体的に人の間でしか生きられません。地方が東京に近づけば近づくほど、人の間は遠くなってゆきます。同じようにグローバル化すればするほど、人と人の間はとんでもなく離れてゆきます(あたかも遠くに暮らす人たちと親しくなれるようなイメージがつくられていますが、そのような人たちと一緒に具体的な社会をつくることはできないことには、だれも触れていません)。
 じっさいにいま、東京の高層マンションに暮らす人たちの多くは、社会のない空間に生きていると言えるほどです。それはやがては、いろいろな問題を引き起こすでしょう。
 いまや時間的距離の短縮は、社会や自然を破壊する大きな要因のひとつとなっていると言えるでしょう。


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2008年08月23日

自然は分け与える

 今回からは、少しいろいろな角度からものごとを考えたいと思います。
 最初は、自然がもたらす贈与についてです。

 もう十数年前のことです。白神山地が世界遺産に登録される前、その地を訪れたことがあります。そろそろ初雪の便りが聞かれるころの白神は、ブナの黄葉の真っ盛りでした。観光客も途絶え、静かな山旅となりました。
 ふと、足下に敷き詰められたと思えるほどのブナの実を見て、「白神のブナを育ててみたい」といった友人の言葉を思い出し、かき集めはじめました。ほんの2,3分で、小さな紙袋がいっぱいになるほどでした。
 何者かの気配に、顔を上げると、ほんの数メートル先で、脇目もふらず同じようにブナの実をかき集めている御仁がいます。津軽のニホンザルでした。
 このとき、とつぜん気づいたのは、「自然は分け与える」ということでした。

 ブナは、単に自らの子孫を残すためだけではなく、おおくの異なった生命が生きることができるように、大量の実をつけているのだと、そのとき気づきました。
 わたしたちは、このような現象を見るとき、これまで「生存競争」という側面で見るように訓練されています。ブナの実が発芽できるのは、毎年、ほんのわずかですし、ましてや成木まで育つのは、数年間に撒かれた数億の実のひとつでしかないでしょう。そのように成木になったブナの木を見て、生存競争に勝ったと見てきたのです。
 森の中の多様な生命の側から見れば、ことはまったく異なった様相を見せます。ブナは、水と空気と無機物から、生命の維持に必要な有機物を作り出し、分け与えてくれる、生命の素なのです。

 経営学者がブナの木を見たら、きっと次のように言うでしょう。「もっとコスト管理をしっかりして、無駄をなくせ。実は確実に生育する範囲でつければいい!」
 ブナは、自らの子孫のことだけを考える―ブナが考えるというのは変かもしれませんが、それ以外に表現法がありません―ならば、めちゃくちゃ強固な実を数個だけ落とせばいいはずです。味もうんと不味くすればいい。ところが、この年は「成り年」だったこともあって、絨毯を敷き詰めたような―というのは少し大げさですが―大量の実を落としていたのです。ニホンザルもツキノワグマも、だから冬を越せる。自然は、経営学からすれば、とびっきりの落第生以外の何者でもありません。経営学者が自然を見たら、その壮大な無駄の体系にあきれ果てることでしょう。
 自然が異常なのでしょうか、それともわたしたちが異常なのでしょうか。
 ただこれだけは言えます。自然がもし、いま、わたしたちがやっているように、競争的な世界を生み出していたら、自然の様相は、きっと貧弱で殺伐として、目を背けたくなるにちがいありません。

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2008年08月13日

自然はどこまで人間に耐えうるのか(取りあえずの最終回)

【今一度振り返る】
 ローラ・E・ハインは、「政治の論争から経済(今や成長という技術的問題として提示されていた)を切りはなしたことはきわめて政治的な行為であり、おそらく日本の戦後史上もっとも反民主的な展開だったであろう」(「成長即成功か」松居弘道・訳 『歴史としての戦後日本』アンドルー・ゴートン編 みすず書房)と指摘しています。まさに「高度成長の体験は、公共の記憶を保守的なコンセンサスに向けて移動することにかんして、保守的知識人の努力よりも効果を発揮した。体制派のいだく、すべてが消滅するかもしれないという不安は(中略)、『近代の完成』などに興味も情熱ももたないが、現在の生活がつづき、改善されることを望み、そして、それを失うことを恐れているふつうの日本人の多くが、それほど強烈ではないにせよ、共有する感情」(「現在の中の過去」キャロル・グラック 沢田博・訳 『歴史としての戦後日本』アンドルー・ゴートン編 みすず書房)となっていたからです。けれども、このような状況はひとり日本のものではなかったのです。すでに指摘しましたが、20世紀半ばから世界は生産力競争の坩堝となり、政治から経済へと軸足を移し、その挙げ句、ごく少数の地域を除いて、すべての国が資本主義的市場主義へと流れ込んでしまいました。
 このような資本主義の現状は、あらゆるリスクの排除を実現しようと見知らぬ他者を徹底排除するという論理でつくられたゲーティド・コミュニティと、偶然性や猥雑さを排除した「ディズニー型空間」としてのショッピング・センターに現れています。オリンピックに沸いた「市場型社会主義国」の中国で、そのことがあからさまになったことは、驚くべきことではありません。
 他方、世界の資本主義圏で民主主義を担保するものとして、2大政党…じつは、この制度は民主主義からは遠く離れたものに過ぎません…が喧伝され、日本もその一員ではありますが、実際にはその2大政党は保守的政党の並列に過ぎなくなっています。そこでは政党は、より露骨に資本の論理を代弁するか、オブラートにくるんだ対応をするかの、いわゆる「現実主義」的選択でしか存在しません。
 明らかに現実主義という名のもとに、人びとは現在の体制以外のあり方を想像する機会すら奪われているのです。
 おそらくこのことこそが「近代の完成」だったのでしょう。

 その結果、いまや「市場(しじょう)」に疑義を呈することは、非現実主義として最初から排除されます。この「市場(しじょう)」という言葉は、現実にモノを取引する「市場(いちば)」ではなく、一種概念上の存在でしかありません。にもかかわらず、この2つの言葉は、その概念を混同して用いられることで、「市場(しじょう)」批判は非現実的な夢想者のものとされてしまいました。
 それでは現実の地球上の「生命」世界を見ていただきたいと思います。アフリカの熱帯雨林の生命、乾燥地帯の生命、日本の生命、極北の生命、これらの生命はそれぞれの環境に適応しながら生きています。これらの生命は簡単には行き来できません。それどころか極北の生命を熱帯雨林に移したら、生命はそのままでは生きつづけることはできません。生命というのは環境と同じように多様な存在なのです。個々それぞれの具体性で見るべきものなのです。
 ところが市場(しじょう)ときたら、個々の具体的なものを1つの抽象的な尺度…貨幣的価値…だけで比較するのです。その上で、すべての事物が交換可能であるとしています。このことは、ある意味で非常に危険な虚構…フィクション…であるにもかかわらず、多くの人はそのことに気づこうとしません。そこで、このフィクションに基づいて、熱帯雨林のものも、極北のものも、あたかも交換可能なものであるかのように扱われ、じっさいにも交換されてしまいます。
 このことは人間の都合による自然の操作にほかなりません。じっさいに生育すべきでないところに、さまざまな生命を持ち込むことになるのですから・・・。じっさい、身近な野菜ひとつとっても、たとえばハウス栽培やトンネル栽培など、人が自然操作をしなければ生育すらできないものとなっています。自然の操作をすることでわたしたちは、豊かになったとされています。わたしたちは、自然からさまざまな元素を取り出し、機械や道具をつくり、その機械や道具を使ってさらに自然から搾り取り、より豊かになったと感じてきました。ところが、その一方で地球の自然からは、多様性がどんどん失われています。その結果はいったいどういうことになるのでしょうか?
 
 その結果のひとつ…あくまでひとつにすぎません…が温暖化と呼ばれているものです。
 これまでも生活を豊かにすると称して、わたしたちは自然を操作し、その結果、さまざまな解決困難な問題を生み出してきました。それでも、これまでの問題はローカルなものが多く、世界中から注意されてみられることは、あまりありませんでした。そしてその技術的解決のためにさらなる科学技術が駆使され、本質的解決から多くの人たちの目を背けさせてきました。
 温暖化についても、わたしたちの暮らしのあり方を変えて行く…これは社会を変えて行くということです…のではなく、間違いなく、将来さらに問題を生む技術的解決…原子力発電、大規模風力発電等々…が提案されるはずです。なぜなら資本はその増殖を求める企業同士が競争する市場(しじょう)制度を、けっして変えるつもりはありませんし、そのため原則的には自然の操作・破壊を抑えることはできないからです。資本主義は格差を生み出す競争主義と、より大きな生産力…自然からの収奪力の増強…を求める生産力主義を前提に運営されているからです。
 これはある意味で、自分たちの住み家、自分たちの依って立つ足下を切り崩すことなのです。わたしたちが「豊かなになった」と思わされていることは、じつはわたしたちが生きつづけることのできる地球環境をやせ細らせながら、さまざまな自然を奪ってきた結果でした。生産力主義はとどのつまり破壊主義といえるのです。しかも市場(しじょう)は、その本質からして民主的なものではあり得ません。むしろ人を人のオオカミとする場といえます。
 いま立ち止まって振り返らなければ、間違いなく手遅れになるでしょう。ここでわたしが述べていることは、多くの人にとってあまり嬉しくないことかもしれません。
 けれどもいま、わたしたちに「必要なのは、現にあるものではなく、ありうるであろうもの、あらねばならないであろうもの」(『したこととすべきこと』コルネリウス・カストリアディス)なのです。どのようにすれば、わたしたちが変わりうるうるかを考え、そちらに一歩を踏み出すことなのです。
 いったい自然はどこまで、そしていつまで人間に耐え得るのでしょうか。

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