【今一度振り返る】 ローラ・E・ハインは、「政治の論争から経済(今や成長という技術的問題として提示されていた)を切りはなしたことはきわめて政治的な行為であり、おそらく日本の戦後史上もっとも反民主的な展開だったであろう」(「成長即成功か」松居弘道・訳 『歴史としての戦後日本』アンドルー・ゴートン編 みすず書房)と指摘しています。まさに「高度成長の体験は、公共の記憶を保守的なコンセンサスに向けて移動することにかんして、保守的知識人の努力よりも効果を発揮した。体制派のいだく、すべてが消滅するかもしれないという不安は(中略)、『近代の完成』などに興味も情熱ももたないが、現在の生活がつづき、改善されることを望み、そして、それを失うことを恐れているふつうの日本人の多くが、それほど強烈ではないにせよ、共有する感情」(「現在の中の過去」キャロル・グラック 沢田博・訳 『歴史としての戦後日本』アンドルー・ゴートン編 みすず書房)となっていたからです。けれども、このような状況はひとり日本のものではなかったのです。すでに指摘しましたが、20世紀半ばから世界は生産力競争の坩堝となり、政治から経済へと軸足を移し、その挙げ句、ごく少数の地域を除いて、すべての国が資本主義的市場主義へと流れ込んでしまいました。
このような資本主義の現状は、あらゆるリスクの排除を実現しようと見知らぬ他者を徹底排除するという論理でつくられたゲーティド・
コミュニティと、偶然性や猥雑さを排除した「
ディズニー型空間」としての
ショッピング・センターに現れています。オリンピックに沸いた「市場型社会主義国」の
中国で、そのことがあからさまになったことは、驚くべきことではありません。
他方、世界の資本主義圏で民主主義を
担保するものとして、2大政党…じつは、この制度は民主主義からは遠く離れたものに過ぎません…が喧伝され、日本もその一員ではありますが、実際にはその2大政党は保守的政党の並列に過ぎなくなっています。そこでは政党は、より露骨に資本の論理を代弁するか、オブラートにくるんだ対応をするかの、いわゆる「現実主義」的選択でしか存在しません。
明らかに現実主義という名のもとに、人びとは現在の体制以外のあり方を想像する機会すら奪われているのです。
おそらくこのことこそが「近代の完成」だったのでしょう。
その結果、いまや「市場(しじょう)」に疑義を呈することは、非現実主義として最初から排除されます。この「市場(しじょう)」という言葉は、現実にモノを取引する「市場(いちば)」ではなく、一種概念上の存在でしかありません。にもかかわらず、この2つの言葉は、その概念を混同して用いられることで、「市場(しじょう)」批判は非現実的な夢想者のものとされてしまいました。
それでは現実の地球上の「生命」世界を見ていただきたいと思います。
アフリカの熱帯雨林の生命、乾燥地帯の生命、日本の生命、極北の生命、これらの生命はそれぞれの環境に適応しながら生きています。これらの生命は簡単には行き来できません。それどころか極北の生命を熱帯雨林に移したら、生命はそのままでは生きつづけることはできません。生命というのは環境と同じように多様な存在なのです。個々それぞれの具体性で見るべきものなのです。
ところが市場(しじょう)ときたら、個々の具体的なものを1つの抽象的な尺度…貨幣的価値…だけで
比較するのです。その上で、すべての事物が交換可能であるとしています。このことは、ある意味で非常に危険な虚構…フィクション…であるにもかかわらず、多くの人はそのことに気づこうとしません。そこで、このフィクションに基づいて、熱帯雨林のものも、極北のものも、あたかも交換可能なものであるかのように扱われ、じっさいにも交換されてしまいます。
このことは人間の都合による自然の操作にほかなりません。じっさいに生育すべきでないところに、さまざまな生命を持ち込むことになるのですから・・・。じっさい、身近な野菜ひとつとっても、たとえば
ハウス栽培やトンネル栽培など、人が自然操作をしなければ生育すらできないものとなっています。自然の操作をすることでわたしたちは、豊かになったとされています。わたしたちは、自然からさまざまな元素を
取り出し、機械や道具をつくり、その機械や道具を使ってさらに自然から搾り取り、より豊かになったと感じてきました。ところが、その一方で地球の自然からは、多様性がどんどん失われています。その結果はいったいどういうことになるのでしょうか?
その結果のひとつ…あくまでひとつにすぎません…が温暖化と呼ばれているものです。
これまでも生活を豊かにすると称して、わたしたちは自然を操作し、その結果、さまざまな解決困難な問題を生み出してきました。それでも、これまでの問題はローカルなものが多く、世界中から注意されてみられることは、あまりありませんでした。そしてその技術的解決のためにさらなる科学技術が駆使され、本質的解決から多くの人たちの目を背けさせてきました。
温暖化についても、わたしたちの暮らしのあり方を変えて行く…これは社会を変えて行くということです…のではなく、間違いなく、将来さらに問題を生む技術的解決…原子力発電、大規模風力発電等々…が提案されるはずです。なぜなら資本はその増殖を求める企業同士が競争する市場(しじょう)制度を、けっして変えるつもりはありませんし、そのため原則的には自然の操作・破壊を抑えることはできないからです。資本主義は格差を生み出す競争主義と、より大きな生産力…自然からの収奪力の増強…を求める生産力主義を前提に
運営されているからです。
これはある意味で、自分たちの住み家、自分たちの依って立つ足下を切り崩すことなのです。わたしたちが「豊かなになった」と思わされていることは、じつはわたしたちが生きつづけることのできる地球環境をやせ細らせながら、さまざまな自然を奪ってきた結果でした。生産力主義はとどのつまり破壊主義といえるのです。しかも市場(しじょう)は、その本質からして民主的なものではあり得ません。むしろ人を人のオオカミとする場といえます。
いま立ち止まって振り返らなければ、間違いなく手遅れになるでしょう。ここでわたしが述べていることは、多くの人にとってあまり嬉しくないことかもしれません。
けれどもいま、わたしたちに「必要なのは、現にあるものではなく、ありうるであろうもの、あらねばならないであろうもの」(『したこととすべきこと』コルネリウス・カストリアディス)なのです。
どのようにすれば、わたしたちが変わりうるうるかを考え、そちらに一歩を踏み出すことなのです。 いったい自然はどこまで、そしていつまで人間に耐え得るのでしょうか。