おそらく、モノ(=商品)の記号化は20世紀最大の発見でした。資本主義
システムが第二次大戦に勝利し、生産力主義の
異母兄弟である社会主義を圧倒したのも、この発見があったなればこそでしょう。
モノを機能的には使えるのに心理的に使えなくしてしまえば、モノはつぎつぎと買われて行きます。1920年代に、
自動車会社のGMが「自動車はみかけだ」として、頻繁にモデルチェンジを行い、十分に使える車に心理的に乗りにくくさせました。
このようなモノの記号化は、無限の消費を見いだしたかに見えました。地球の資源と環境が無限であれば、そして人間の身体が何ものにも侵されないものであるならば、それは可能であったかもしれません。
あらゆるモノ(=商品)を記号化し、無限の物的な欲望を開発することは、一方では地球上のあらゆる資源の食いつぶしへと向かい、他方で人間の労働への従属をもたらしました。
先端の中流階級を象徴するモノ(=商品)を購入する者から、中流階級に乗り遅れまいと追いかける層まで、実体としてのモノ(=商品)ではなく象徴(=記号)としての商品を、中流意識しかない「大衆」は購入しつづけたのです。商品の使用価値でもなければ交換価値でもない。ただ記号性だけが購入されるのです。その流れの中にあっては、そのことの異様さは目につきません。しかも、それらの商品を
生産し、販売するのも、中流階級幻想に酔った、この人びとだったのです。
人工的に、しかも
イメージ操作だけで「差異」を生み出すことのできるモノ(=商品)の記号化は、あらゆる商品に及びました。遠隔地まで各種のリスクを負って商品を運ぶ必要もなければ、技術革新のように懸命の技術開発による時間の先取りも必要ありません。いかに情報を操作しうるかだけが、その
技能であり、そこには一種の投機的メンタリティがはびこることになります。「つぎの流行は何か」。
もし、人びとが記号消費から一斉に降りれば、そこで残るのは、旧来の使用価値であるか、交換価値なのです。そうなれば、食・衣・住という暮らしの基本物資と、将来にわたって交換価値の
担保されると考えられるモノにしか、価値は認められなくなるはずです。しかしながら記号消費による自己表現しかできなくなった人びとは、自らで自らを表現することすらもできなくなってしまったため、記号消費から降りるという選択肢はなかなか選ばれそうもありません。
生産力主義のもと、資本主義の不出来な片割れでしかなかった社会主義が、資本の暴走に巻き込まれて雲散してしまったからといって、記号消費と相まって資本の暴走を加速させようとするグローバリゼーションは、地球の環境(とりもなおさず人間も)にとっては非常に危険なものといえます。資本主義に代わるシステムが当面考えられなければ、資本を自由放任するのではなく、鎖をかけておくのが正解のはずでした。
資本の暴走の中にあって、個々の資本は、その論理としてコストをできうればゼロにしようとします。つまり、人件費と時間経費を徹底的に削減しようとします。これはこれで合理的な判断のように見えます。しかし、部分解は、必ずしも全体解ではありません。それどころか、とんでもない誤りを招いてしまうのです。
現代社会における商品の購入者は、一部の
富裕層ではありません。否、かつて一部の富裕層でしかなかった商品購入者を、大衆に拡大することによって、資本は膨張できたのです。これは一種の拡大するオートポイエーシス・システムでした。
大衆の収入基盤を縮小すれば、やがて資本も縮小しなければならなくなるのは、理の道理でしょう。
ここから、ひとつの仮説を組み立てなければなりません。
@中流幻想によりかかった「モノ」の記号消費の行き詰まり
(=環境制約)の明示化、ただしこのことが大量生産の否定になるかと言えば、必ずしもそうではないこと、A「モノ」の(原材料の大量採掘)・大量生産・大量消費・大量意図的陳腐化・大量廃棄が不可能となったこと、B人間が自らの
アイデンティティを求める存在である限り、何らかの記号消費は消滅しないこと、C現在の人びとの暮らしを保持しようとするならば、大量消費・大量意図的陳腐化によって収入を得ていた人びとの収入源(というより暮らしの糧)を確保しなければならないこと、を前提に、何ができるかを考えなければなりません。
いま必要なことは、いつか来た道をたどることではなく、時代が変革することを見越すことなのです。ケインズ的な有効需要の喚起は、経済学の上だけで見れば間違いではないけれど、限られた地球空間といった与件の中では、今後は機能させるわけにはいきません。
そこで地球的な観点と人間的な観点を組み合わせて考えれば、問題の解決は経済的な拡大ではないことは容易に理解できるはずです。緊急の、ただしあくまで当面の課題は、いかに現有の富を公平・公正に分配するかなのです。にもかかわらず、多くの行政当局の選択肢には、「経済的拡大」しかないかに見えます。現在の自然(=地球)からの収奪の効率性しか見ない経済拡大的な「能力主義」は、一種の戦争の能力主義、つまり人をいかに効率的に多く殺害し(多くの人間が飢えるに任せ)、いかに大量の破壊(資源と大気の破壊)をするかという・・・なのです。わたしたちは、破壊の効率を能力と言い換えているにすぎません。
残念ながら、現在の経済学では、その解決策は生み出せないように思われます。現在の経済学は、自然科学の方法論を取り入れることで、自然科学と同じようにWHYには答えることができないもの=自然科学の不良
コピー=になってしまったからです。いまや、経済学は、WHATあるいはせいぜいHOW TOにしか答えることができないのです。その結果、経済学は最少の「貨幣的」資源量で、いかに効率的に貨幣を増やすか、だけを目的とするものでしかなくなってしまいました。(つづく)