2012年03月22日

山里も春がやってきました。小金井もお花見が間近です。

 四国の山里の棚田でもレンゲが咲き始めています。小さな集落でも、なぜかみんなもうきうきしています。今年は、こういった「過疎」の集落が少しでもにぎやかになるよう、いろいろと考えていきたいと思っています。
 ところで、小金井では3月24日から、春のお花見弁当フェアが始まります。今年はどこも桜の開花が遅れていますが、小金井の桜は、今年も素晴らしいでしょう。ぜひ、お花見弁当を持って、桜の花の下で春の一日をお楽しみください。
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2011年12月24日

さて、来年は?

 今年は3月11日の大天災・大人災が発生し、多くの被害者を出しました。大震災とそれに引き続いての大津波については、だれも事前に対処できない天災であり、その被害については、この国に暮らす人々がすべからく何らかの負担をしながら、カバーすべきものといえます。他方、東京電力福島第一原子力発電所の大人災については、いまだに問題点があいまいなまま、被害対策が行われようとしています。
 原子力発電所については、事故があれば、大災害になることは、この国が原子力平和利用という名の「核保有」に踏み切ったときから、一部の人々が繰り返し警告をしていました。それらの警告は、行政や経済界のみならず、司法においても、まったく無視され、むしろ警告を発した人々が「非国民」扱いされていたのです。同時に、原子力発電所立地地域においては、さまざまな経済的優遇措置が導入され、やむなくか、進んでかを問わず、(というのは、これらの立地地域において、一部の反対はあったものの、多くは目先の経済的優遇措置に飛びついてしまったからです。そこに暮らす人々が、本気で未来を考えていたら、さまざまな情報を吟味し、原発に反対したはずです)結局は立地を認めてしまったのです。これらの経済的優遇措置は、いわば保険金の前取りのようなものでもありました。原発が、推進者の言ったように絶対安全なものであるなら、東京周辺に立地したであろうし、じつは受け入れた地域も、うすうす危険性を認識しながら、推進者の言葉にすがりつつ、未来よりも「いまここ」での「金《かね》」を選択してしまったのでしょう。今回の大人災で、たしかに原因は、東京電力の原子力発電そのものにあるにしても、「いまここ」での「金《かね》」をほしさに原発立地を選択してしまったことに対する責任は、だれも追及していないという不思議があります。「こんなことになるのなら」という言い訳は、いまさら成立しません。こんなことになるかもしれないから、保険金の前払い的なさまざまな経済的優遇措置があったのですから…。
 この議論は、ある意味で厳しいかもしれません。しかし「核装置」である原発を引き受けるということは、それだけの覚悟が必要で、事故が起こった後で、そのことを非難することは、結局はいいところ取りをしたかっただけの無責任そのものでしょう。
 ともあれ、原子力発電のような核利用装置は、人間の技術的対応の限界を超えています。もしもの災害には、だれもその責任を負いきれないからです。だから、みんなでというのは、無責任きわまりなく論外です。

 今年のこれらの災害への対処を見ていると、近代のさまざまな制度、科学技術の限界が、一挙に露呈したように見えます。政治の対応も、民主党だろうが自民党だろうが、所詮は同じ穴の狢でしかありません。このような時代には、ほんとうは人々一人ひとりが自分の頭で考え、できるだけ多くの情報を吟味し判断することが必要です。しかし、どうでしょうか、流れは強いリーダーを求めるファシズムに向かいそうな状況にあるような気がします。
 果たして、来年はどうなるのでしょうか?
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2011年10月12日

エコロジカルとは?

いま、わたしが暮らす愛媛の山里では、さまざまな野生動物が出没します。秋の米や栗の収穫期を狙って、現れるのです。イノシシやハクビシン、ニホンアナグマ、タヌキ、キツネなど、いずれも出会えばかわいいと感じますが、山里の生産物は確実に食い荒らされています。そこで、有害鳥獣駆除ということになります。
こういう話を書くと、都市の文明に囲まれた人々の中には、「人が野生生物の領域に住んでいるからいけない」とか野生動物との共存といったことを物知り顔で主張する人も少なからずいます。今回の画像などを見たら、そういう人たちは、さらに批判するのでしょう。しかし、主張や批判はしても、けっして山里で暮らそうとはしません。
じつは原発の問題も、このような状況と相通ずるところがあります。過疎の中の人々は、環境と一定の融和を保ちながら暮らそうとしても、一方で野生生物との衝突、他方で働き口もなく収入も限られているのです。二次自然を豊かに保つには、人々が自然に働きかけつづけなければなりませんが、そのような行為(広い意味での環境保全)には、経済的にほとんどまったく報いはありません。原発のような「毒饅頭」的な補助金でもなければ、暮らしそのものが立ち行かないのです。
過疎、そして原発といった問題を考えるときは、このような観点も必要です。単に科学技術や経済成長ではなく、社会文化的視点を欠いては、おそらく解決策は見いだせないはずです。
ということなどを考えながらも、画像のイノシシはわたしたちの胃に収まることになります。
イノシシの解体.jpg
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2011年09月30日

『福島の原発事故をめぐって』を読む

 ずいぶんとブログ書きからご無沙汰してしまいました。今年は自然災害、人工災害と、巨大災害がこの国を襲っています。まるでこの国が「水難の相」を地でゆくように、大津波のそして台風の水害がつづきました。これらの被害にも、ある意味では「人災」的側面もありますが、最大の人的災害は「福島の原発事故」といえます。ある新聞で「経済の発展には原発が必要だ。福島の原発事故ではだれも死んでいない。なぜ、原発を否定するのだ」という地方公務員の投書が取り上げられていました。わたしにしてみれば「ああ、やはりこの程度の発想しかできないのか」と、暗澹たる思いです。さらに山口県上関町の町長選では、おそらく原発の何たるかをほとんど理解しないまま、原発交付金(これは事故があったときの、前渡し保険金といえます)ほしさに、原発推進の現職が選ばれてしまいました。
 原発については、事故が起これば、多くの人々が被曝します。被曝者は、その当人はもちろん、遺伝子が被曝により傷つけられれば、その子孫にまで障害が生まれる危険があります。自然災害は、たしかに当事者にとっては大変な出来事ですが、子孫の身体にまで影響を及ぼすことはありません。わたしも広島の被曝2世ですが、子どもが生まれるときはやはり大変気になりました。自分の過失でも何でもなく、未来にわたって影響を残す可能性は、やはり大きな問題と思います。
 原発は、『福島の原発事故をめぐって』の著者である山本義隆さんも指摘しているように、人間がコントロールできない核反応を扱っているという意味で、人間が持ってはいけない技術です。わたしたちは、さまざまなことがらを科学技術によりコントロールできると、あまりにも傲慢になっています。それは、「進歩信仰」と対になったものでもあります。
 フランスの思想家であった故・コリュネリウス・カストリアディスは、「人間は進歩などしていない」と指摘しています。芸術、文化そして倫理において、わたしたちは旧石器時代からおそらく何も進歩していません。
 これからときどき、山本さんの指摘を受けて、このへんの問題を考えてゆきたいと思います。このような問題は、現在の農業も抱えているものでもあるからです。
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2011年03月11日

雑草って何だろう

 春の気配は、まず畑や山道に緑がうっすらと現れるところからやってきます。この「緑」、たいていの農家が目の敵にする「雑草」です。なかには、蕗の薹のように春の味をもたらすものもありますが、多くは「なくなってほしい」草と考えられています。もともと農業は、人間にとって有用と思われる植物を限定して育て収穫するわけですから、自然でも何でもありません。むしろ、行為としては徹底的に「不自然」です。自然なのは露地栽培されるときの天候くらいです。農法が有機農業であろうと水田であろうと、その不自然さは変わりありません。このところを理解しておかないと、大誤解が生じます。「農業は不自然である」ことを前提に、なぜ人間がこのような不自然に入り込んだのかを考える必要があります。自然の中で安定した食糧を得るためでしょうか?これはちょっと違うようです。かつてM.サーリンズが指摘したように、かつての狩猟採集時代は意外と豊かだったらしいのです。だから人間が増えすぎた…のかもしれません。そこで、狩猟採集時代より厳しい暮らしになるにもかかわらず、仕方なく「農業」を選択したのでしょう。
 途中を省略します。
 いま、食糧の自給を叫ぶのは、この文脈から言えば、もっと人間に不自然になれということになります。食糧に自給ができないのは、農業の生産性の問題ではなく、あきらかに人間が増えすぎたことに原因があります。少子高齢化に危機しか見ない発想は、より大きな危機を招くものであることに気がつかなければなりません。
 「雑草」を敵とすることは、より「合理的?」に、効率よく人間に都合のよい植物だけを育て収穫したいということなのです。その果てに、遺伝子組み換えなどといった自然操作が現れるのです。
 春の野が、一面の農作物だけで、さまざまな雑草が一切見られないとしたら、その光景は寒々としたものとなるでしょう。
 生物多様性と農業とは相反するものであることを、もう少し理解する必要があるでしょう。
 水田にしても、それは水田以前の自然ではないことに気づくべきです。たしかに大都会のコンクリートの高層建築群と比較すれば、自然に近いように感ずるかもしれませんが、水田だって、そのコンクリート・ジャングルへとつづく一里塚なのですから…。
 では、どうすればいいのか?異様に増加した大型ほ乳類を、徐々に減少させることが必要なのでしょうが、でも、どうしたらいいのでしょうかねえ。この大型ほ乳類は、地球を食い尽くしてしまうのでしょうか?
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2011年02月22日

エコロジカルという幻想

山里でも、ようやく春の兆しが感じられます。今日、今年初めてのウグイスの声を聞きました。この愛媛のウグイスは「ホーホケキョ」ではなく、「ホーペチャチ」と啼くのです。昨年、この啼き声を初めて聞いたとき、まだ啼き方に習熟していないと思っていたのですウグイスが、いつまで経っても、「ホーペチャチ」。どうやらウグイスの方言らしいと理解しました。
方言、いいですね。ところが、人間世界では、地域地域の差異は、ことに商品にあってはあってはならないようです。エコロジカルという冠がかぶせられた多くの商品は、地域に関係なくエコロジカルらしく、全国的にコマーシャルしています。ウグイスだって、地域地域で啼き声も違うのに、どうしてでしょうか?全国一律でエコロジカルってあるのでしょうか?
こういう小さな疑問から、現在の社会のどこがおかしいのか、考えてほしいと思います。
いま、わたしたちがエコロジカルという言葉で表現していることやものが、じつはとんでもなく非エコロジカルであることに気づくでしょう。
このつづきは、これから少しじっくり議論していきたいと考えています。
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2011年02月08日

魔除けの大草鞋

 愛媛の山里にも、ほのかに春の日差しが感じられるようになりました。
 この小さな集落では、春を待つかのように、集落を魔物から守る大草鞋づくりが行われます。集落の住人が集まって、大きな草鞋をつくり、「この集落にはこんな草鞋を履く大男が住んでいる。悪人は立ち寄ると、大男が懲らしめるぞ」という印にするのです。ある意味では他愛のないことですが、草鞋づくりにみんなが参加するということが、主義主張を超えた地域社会のまとまりを生むということかもしれません。この集落では、道掃除や念仏講など、さまざまな機会に住民が集まって作業し、それが終えるとみんなで酒盛りになります。もちろん、この集落でも多くの人は集落外に仕事を持っており、日ごろはなかなか会わないのですが、このような機会があるとさまざまな情報も交換できるのです。
 人と人が顔を合わせ、飲み交わすだけでも、お互いを理解できるわけです。
 都市では困難なことかもしれませんが、このような催しに参加すると、大きな単位より、小さな地域の自治が肝要だということが実感されます。集落入口の大草鞋.jpg
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2010年11月29日

山里の冬

 私たちの暮らす愛媛・南予の山里も、冬の気配が強くなりました。この季節になると、山里に暮らす人々の楽しみは「どぶろく」づくりです。現金収入の乏しい山里では、昔から「どぶろく」づくりが行われていたようです。かつては酒税法違反にも問われた「どぶろく」づくりですが、人々の楽しみを国家の都合で取り締まる発想そのものが、異様でした。
 にもかかわらず、山里の人々は、その多くが保守的でいまだにかつての自民党的(ある意味では、現在の民主党も同じ穴の狢ですが)上意下達がまかり通るところがあります。自分たちをもっともないがしろにする「お上」に対して、批判することなく従順に「お上」のお達しを自分たちのものとして受け止める体質があります。自分たちの楽しみすら奪おうという権力に対しても、あきれるほどその「威光」を受け入れてしまいます。「お上」が自分たちに都合のよい政策を押しつけていても、あたかもそれが暮らしを守ってくれる方策であるかのように受け止め、支持してしまうのです。これは小さな単位のコミュニティで、いまここでの波風を立てない方策かもしれませんが、長期的には間違いなく衰退をもたらすものです。さあ、どうするか、ここが悩みどころでもあります。
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2010年09月20日

獣肉を食う

 9月19日の午後、愛媛県内子町で開かれていた「茶の湯炭の世界全国大会」に参加していたときのことです。私たちの暮らす集落の方から携帯電話です。何事かと思って聞くと「イノシシが罠にかかった。解体して食うから、一緒に飲もう」。
 当然、1も2もなく、「行く!」。
 このところ、集落にはイノシシが出没し、田んぼを踏み荒らしたり、収穫期に入った栗を食べてしまったりと、集落の人にとっては、憎き存在になっていました。で、罠にかかったイノシシはみんなで食べてしまうことになったのです。
 聞くと、2〜3歳の若い雌イノシシということで、ちょっと小さかったということですが、肉は軟らかくて臭みもなく、焼き肉にして食べても美味。ある意味、このことは残酷に思えるかもしれません。しかし、山里では、獣と人間とは共棲しつつも、敵対することも多く、また、天敵のいない大型獣は、人間が適当に間引くことも必要なのです。どぶろくの名人のつくったどぶろくを飲みながら、夕闇の中で、集落の人たちは、焼き肉をつついたのでした。
 ちなみに、その日の朝、ハクビシンが道路で行き倒れていたのです。
 都会の中で、獣といえば大半がペット、もしくは闇に隠れた鼠どもというのとは異なり、食ったり被害を受けたりという獣たちとの関係は、ずっとエコロジカルなものといえます。
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2010年09月17日

秋の気配の山里

 ひさしぶりに、ブログを書きます。
 四国の山里に越して、4か月。都会でイメージする「エコライフ」とは、まったく異なった「エコライフ」を実践しています。
 たとえば、放置された田んぼにはびこる「ツユクサ」は、刈っても刈っても、たちまちに息を吹き返し、あたりを覆い尽くします。都会の片隅でおとなしく咲く「ツユクサ」からのイメージとは、ほど遠い強靱かつ繁殖力の旺盛な、畑の敵なのです。ですから、とにかく排除、排除で対応しています。かわいい「ツユクサ」を排除だなんて、なんと「非エコ」なんでしょうかねぇ。
 かつて、「わたしは蚊も殺しません」と言って、都会の真ん中で自然保護を主張していた人がいますが、とんでもありません。この夏はチャドクガ、蚊、ブヨ、ウシアブ……といった、刺したり炎症を引き起こす昆虫と、何度となく接触してしまいかつて味わったことのないほど、腕や足さされ痒みや炎症を起こしてしまいました。やっぱり、これらの昆虫類はいない方がいいと思ってしまいます。で、何匹となく、たたきつぶしてしまいました。
 イノシシは、田畑を踏み荒らし、ハクビシンは果実を食い荒らします。
 この集落では、都会のように人びとはさまざまなバリアや文化・制度で、自然から隔離されて、守られているわけではありません。たしかに道路や電気などのインフラは一応あるにしても、一人ひとりが昆虫や獣と直接対峙せざるを得ないのです。こういうところでの「エコライフ」は、このような昆虫や獣を「守る」のではなく、人間も自然の一員として、彼らと闘うところで成立するものと言えます。まさに「エコロジー」そのものの一員としての人間なのです。だから、「エコライフ」なのです。
 でも、夜の星空は、こんなにまでも星があるのかということを思い出させ、同時に人間の小ささを感じさせます。
 この山里にも秋の気配が訪れ、あちこちに秋の野草が咲いています。気象観測始まって初という異様な猛暑の日々もようやく終わりを告げようとしています。
 ほんとうの「エコ」とは、このような異常な気候をもたらすような人間活動をしないところにあるはずです。自然を守るということは、トキを保護したりすることではなく、夏に熱中症を避けるためにクーラーをかけるという暮らしの「異様さ」に気づくところから始まるはずです。
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